PART1 Chapter2 –Doppelganger-

<前編>
 2011年11月19日P.M.9:00 新宿

 新宿駅西口。雑多な成分を含んで澱んだ大気を、秋の雨が冷やしている。
 仕事帰りの会社員と酔客とが入り混じった、うんざりとした疲労感を抱いた雑踏の合間。
 雑居ビルの地下の酒場から数人の男女が固まって出てくる。
「うまかったなぁ、この店。ワインの種類も多かったし」
「うわ、雨!まだ降ってるのかぁ。次どこ行く?」
「あ、リンタロウさん、私、ここで」
 そう言って女の一人が足を止めると、リンタロウと呼ばれた男が振り返った。
「え、せっかくだしもう一軒行こうよ」
 銀に染めた髪が目立つ。浅黒い肌、膝まである黒いニットのジャケット、赤い細身のパンツ。髪と同じ銀色の、蜘蛛の巣のような細い網目のストールを巻きつけて、傘をさす代わりに帽子をかぶる。
「ごめんなさい、友達と待ち合わせがあって」
「えー?彼氏とか?」
「違いますよー」
「なんだ。じゃあまたね。気をつけて」
 ずるずる引き止めても楽しめないことは経験上よく分かっているので、あっさりと手を振る。楽しみたい奴だけが残ればいい。
 ……というか。
「弥生さん、もう1軒付き合ってよ」
 ちょっと先を歩いていた女に追いついて歩調を合わせる。女が顔を上げ、傘越しに艶っぽい笑みを浮かべた。
「近くにいいバーがあるわ。そんなに高くないし」
「いいね、そこ行こう」
 言いながら、肩に軽く触れて促す。
「……みんなはいいの?」
 雑踏に紛れて足早に歩き出すリンタロウに弥生が囁く。一緒に飲んでいた仲間のことを言っているのだ。合コンの後、二次会に流れるつもりが、気が変わった。
「いいの。俺は君と飲みたい」
 案内されたのは新宿でもオフィス街に近いエリアだ。大衆居酒屋や電器店やパチンコ店が放つ風情のない灯りで、狭い通りは昼間のように明るい。新宿といってもこのあたりは歌舞伎町のような水商売にどっぷり漬かった歓楽街の様相はなく、渋谷のように若者が溢れかえっているわけでもなく、当然青山あたりの小洒落た雰囲気もない。行き交う客層は割と真面目そうなサラリーマン風の集団、そこに混じる女性も地味で堅実な職業についていそうな人が多い。
 その一角の、甲州街道に出るすぐ手前のパチンコ屋の裏手の袋小路の二階。こんなところに、という場所にある店だったが、確かに雰囲気がいい。革のソファーがゆったりとした感覚で配置され、ジャズピアノが静かにかかっている。休日前で満席に近い客の入りだが、うるさすぎず静かすぎずめいめいが適度なボリュームで会話を楽しんでいる。こなれた仕草のバーテンの背後で、ダウンライトに照らされてずらりと並んだボトルは、しっかりとバーの主張をしていた。
「ウィスキーとか飲んでみようかな。……アードベック」
 リンタロウはメニューの中から適当に選んでオーダーする。
「飲み方どうされます?」
「ロックで」
「お酒強いのね。あんなにワイン飲んだのに」
 弥生が眺めていたメニューから目を上げ、リンタロウに向かって言う。
「アイラ好きなんだ?結構クセあるよね」
「そうなの?弥生さん詳しいね。さすが年の功」
「ちょっと、酷い、同い年じゃなかった?ていうか知らないで頼んだの?」
「うん。そんなに普段飲まないもの」
「お客様はどうされます?」
 ウェイターに促され、弥生もメニューに目を戻す。
「じゃ、カルヴァドス。あとチョコレートとナッツ」
 ウェイターは畏まりましたと柔らかく頷いて去っていく。
「お酒、あんまり飲まないの?強いのに」
 確か、一軒目の店ではいいペースでビールやワインを飲んでいたはずだ。
「うん、耳がなまるから」
「ああ、バンドやってるんだっけ。オリジナル?」
「うん。作曲もやるよ……何それ?」
 ロックグラスがふたつ二人の前に並べられる。
「林檎のブランデー。一口、飲む?」
 差し出されたグラスに口をつけると、鼻腔に甘い香りが広がった。
「へぇ、香りほど甘くないんだね」
 彼女の背後のガラス窓の夜に、女の後ろ姿越しにリンタロウの銀髪が映っている。カウンターを挟んだきらびやかなバックバーも、まるで永遠に続くように夜の中に伸びている。よく笑う酔った女を眺めながら、俺も酔ったな、とリンタロウはぼんやりと思った。
 建物の間の狭い夜空から、細かい雨が煌めきながら落ちてくる。繁華街の色とりどりの灯が、冷たい湿気に包まれて白く霞む。

 2011年11月19日P.M.11:00 原宿

 湿った樹木の匂いが肌にまとわりつく。
 鎮守の森の闇の中から、人影がひとつまろび出る。
 彼の頭上、黒い梢の奥が青白く光っている。よく目を凝らせば、光を包み込むように周囲の空間が奇妙に歪んでいるのが分かるはずだが、長い雨に降られた公園に人気はなく、光に気付くものはいなかった。眩い光はすぐに縮んでいき、やがて七色の細かい光の粒に分解され、きらきらと弱く瞬きながら夜の闇に溶けていく。
 やわらかい腐葉土の上に俯せた人影は、目を閉じたまましばらく肩で息をしていたが、やがて顔を上げて辺りを見回した。
 木々の吐き出す濃厚な空気に肺が萎縮する。
 暗闇に目が慣れ、森かと思われた木々の合間にに整備された歩道を認める。
 かすかに鳴り続けているのが虫の音だと気付く。
 振り返った先の梢で、まるで彼に見られるのを待っていたかのように、光の残像が弱々しく消えた。
 ——とうとう来てしまった。
「……さて、どこにいるのかな?桜木リンタロウ」
 闇の中に独りごちて、茂神ハルキは明るい方へと歩き出した。

<後編>

 2011年11月20日A.M.2:00 杉並

 ハルキが桜木リンタロウを見つけたのは、荻窪にあるホテルの一室だった。
 カードキーのコードは簡単に解けて、間接照明に照らされた薄暗い室内にするりと滑りこむ。薄くラベンダーのアロマが焚いてある。
 クイーンサイズのベッドには果たして目的の人物——雨に湿ったシャツの前をはだけたままの桜木リンタロウが正体もなく眠っていた。
 ——確かに、よく見慣れた顔だ。ひと目で分かる、その顔は正しくハルキと同じ血脈であることを物語っていた。
 したたかに酔っているらしく、呼気がアルコールそのもののようだ。
 のんびりしている暇はない。この調子ではしばらく目覚める心配はないだろうが、数時間で夜が明け始める。万一にも同じ顔が二つ、陽の光に晒されるのは避けたい。
 ハルキは持ってきた薄い銀色のシートを広げた。一見遮光シートのようだが、特殊な加工がしてあり温度・湿度・空気組成の管理が自在にできる。そのシートで手早くリンタロウの全身をくるみ、同じく未来から持参したコールドスリープ・カプセルに放り込む。予め二年後に設定してあるコントローラーをスタートさせ、ロックを掛ける。
 ハルキが気配に気づいたのはその時だ。目的を達して気が抜けたか、リンタロウを無事にカプセルに入れることに必死で、周りが見えていなかったか。
 ……部屋の中にまだ誰かいる……。
 そっと振り返る。部屋のほとんどがベッドで占められている。
 少し考えれば分かったのだが、一人で寝るにはいささか大きなベッドの、手前半分にリンタロウは寝ていたのだ。ベッドの奥側半分には、緋いサテンのカバーに包まれた羽根布団が丸まっている……その布団が動いたのだ。
「ん…………」
 布団をはだけて顕になった女の肌が、淡い照明を受けて蜂蜜色に浮かび上がる。
 リンタロウはこの女と寝ていたのだ。

 コールドスリープ・カプセルを人目につかないよう隠し、ハルキは先ほどの部屋に戻った。
 さて、どうしたものか。
 幸い女は目覚めていない。リンタロウを運び出した後も室内に香るアルコール臭は下着姿で眠っている彼女のものか。
 ハルキのいた時代、食事も飲酒もすべてバーチャル体験に代替されていたため、宿酔という現象をリアルに経験したことは勿論ない。聞くところによると、吐き気や頭痛に悩まされるという話だが……こんなにも体臭が変わるとは。
 とりあえず彼になりすます……というか取って代わるためには、何くわぬ顔でここに寝ていなければならない。そして彼女が目覚めたら、何くわぬ顔でおはようと言い、昨日はよく飲んだね、と……。
 立ち込める甘ったるいアルコール臭に辟易し、リンタロウを隠した安心感も手伝って少し投げやりな気分になったハルキは、冷蔵庫を開けて缶ビールを出す。半分ほどを一気にあおり、寝ている女を眺める。
 リンタロウの事前情報には恋人は特記されていなかった。その代わり、不特定の女性と関係することがしばしば――と書かれていた。ということはこれも酒の勢いで連れ込んだ女か……。
「……ったく、どーしよーもねぇじいさんだな」
 まだ朝までは間がある。先ほどまで彼の曽祖父が寝ていた場所に横になった瞬間、ハルキは自身の疲労を自覚した。
 タイムトラベルの取材を受けて、ワームホールで時間の感覚のない旅の末、見知らぬ時代の街を数時間彷徨ったのだ。疲れていて当然だ。
 ここで警戒しても始まるまい、どうせ明日から三年この世界でやっていかなければならないのだから。ハルキはそう腹を括ると、押し寄せる睡魔に身を委ねた。

 横の女が寝返りを打った気配で、彼は目覚めた。疲れているといってもどこかで緊張していたらしい、寝入ってからそう時間が経っていないことは腕時計を見て知った。この部屋には窓がない。
 女は目覚めかけているようだった。だが酒のせいで朦朧としているらしい、目を閉じたまましきりに頭を振っては、小さく喘いでいる。右手が伸びて、枕元の何かを探している。
「……みず……」
「水?これか?」
 ヘッドボードに置かれたペットボトルの水をその手に握らせてやるが、目を閉じたまま一口飲みかけただけで、ボトルを抱いて動かなくなる。
 不意に彼をこれまで感じたことのない衝動が突き上げた。女の胸元からボトルをそっと取り上げ、元の位置に戻す。そのまま女の両腕を掴んで組み敷き、唇を重ねた。
 彼が元いた世界では、食事は栄養剤のカプセルで、味覚や満腹感は脳への刺激によって体験する。その技術は食事だけでなくあらゆる娯楽に応用されている。遺伝子異常のリスクを回避するための体外受精が一般化し、セックスさえもバーチャルに体験する快楽でしかなくなっていた。パートナーの気分に左右されることもなく、どんなプレイでも同意を取り付ける必要もなく、ボタンひとつで好きなだけ楽しめる。
 タイムトラベル実験が明らかになって、彼は思ったものだ。
「……本物のコーヒーの味は、どんなだろう?」
 生身の女とのセックスは、どんなだろう。
 薄暗闇の中に浮かび上がる白い首筋が浅く呼吸している。歳はハルキと同じくらいだろうか。雨に濡れたのか、しっとりと頬にかかった長い髪を掻きあげてやる。合わせた肌の体温が低い。
 何度目かのキスで女が応えてきた。瞼は閉じたまま、半分眠っているのかもしれない。幸い相手が入れ替わったことには気付いていないようだ。
 証明を落とすと、とろりとした闇が二人を包んだ。

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